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台湾の思いで

平成9年10月、54年ぶりに高雄を訪れ、私の通った鳳山小学校(本文中にでてくる)を探した。写真は現在の鳳山小学校で私の通った国民学校とは違うが当時の様子をよく残していた。隣は夫。

てっぱいに乗って遊んだかっての養魚池、澄清湖は今や観光の名所であった。

私の出生地は台湾高雄州鳳山郡鳳山街火房口92番地。父は当時44歳、母との間に10年間子供ができずやっと生まれた子だったので、父はいつも私を懐の中に入れてかわいがっていたと言う。

1歳の頃いったん台湾を引き上げて内地に帰り、事業を始めたがはかばかしくなく、再び台湾に戻った。2歳の頃だと思う。父はもともと官吏で、いろいろな仕事に携わっていたようだが、私の記憶に残っている父は水利関係の仕事をしていた。当時、家は鳥松という所にあって、周りはほとんど水田だった。

隣に一軒台湾人の家があり、そのちょっと先に大きな養魚池と水門があった先日54年ぶりにここを訪れてみてその変貌ぶりに驚いたが、その昔は水牛にのって草笛をふく少年が田を耕していたり、砂糖きびを積んだ牛車がぎしぎしいいながら移動していたりして、実にのんびりした田舎だった。池もその後工業用池に変わり、現在は澄清湖と言う観光地になっているが、私の頭の中にある池には菱や睡蓮やほてい草などが浮いていて、その下を大きな草魚がゆっくりと泳いでいたり、はやの群れがさっと翻ったりする。孟宗竹で作った‘てっぱい’に乗って池の中に出るのは楽しかった。水門の下には小えびの群れがむらがっていて、水門に通ずる小川にはすっぽんが隠れていたりして、台湾人がヤスで突いているのをよく見た。夕方になるとねぐらを求めて白鷺が竹林に集まってきたものだったが、先日見た湖には一羽の白鷺も見られなかったのは残念だった。そのかわりに頭の上が白いペタコという小鳥が番いで遊んでいて透き通るようないい声を張り上げていた。(写真下:池の近くで遊ぶ。右から4人目が私)。

父は魚釣が好きで、竹を編んだびくと釣道具入れと釣竿とたもをもって、“おーい、さーちゃん行こうか”と、よく連れて行ってくれた。ハヤは私でもたもですくうことができた。うなぎは夜竹かごを仕掛けておいて早朝にとりにいくのだが、実際に捕まえた記憶はない。けれど、台湾人がバケツにいれてよく届けてくれたので、イヤという程うなぎは食べさせられた。この為か私は今でも鰻が好きでない。鰻をもらうと母は糠で滑りをとって、まないたの上に頭をきりで止めて開いていた。

子供の頃の思いでには林チンテイという台湾人がいて、いつも父と一緒に仕事をしていた。この人の子供は成績がよく、日本の大学に入れたいといっていたが、どうなったことか?チンテイは時々美味しい台湾の食べ物を持ってきてくれた。砂糖餅やちまきや月餅など。裏の田んぼで蛭に食いつかれたときや、川に落ちたときに助けてくれたのもチンテイだった。チンテイは父が亡くなるまで慕ってくれて、最後に泣いてくれたのを思い出す。できたらもう一度会ってみたいと思うが、おそらくもうこの世にはいないだろう。

私の遊び相手は隣家のオッカウという男の子だった。後に知ったのだがオッカウとは黒い犬という意味で、男の子の愛称だそうだ。オッカウは末っ子でいつも自由に遊び回っていた。砂糖きびを引っこ抜いたり、木登り、魚とりはもとより、豚を追いかけたり、稲の藁の中に隠れたりやりたい放題だった。或とき、池のほとりの石塚のような所をオッカウと掘っていたら、沢山の古銭が出てきた。もしかしたら貴重なものだったかもしれないが、リング状にへばりついた古銭を一枚一枚取り外して池の中に投げて遊んだ。この崩れかかった石塚は昔の人のお墓だったのかもしれない。

台湾の葬式を一度見たことがある。大きな御殿を木と紙で作って紙幣で飾りつける。それを死者と共に燃して葬る。墓場への行列は賑々しく、人々は白い衣服に白い頭巾をかぶり、泣き人という人々が大声で泣きながら後に続くのである。 台湾人の家は大体レンガ造りで、中央に祭壇があり、両方に小部屋が連なっている。私の記憶では向かって左端にかまどのある台所があって、右側は寝室がいくつもあった。通り道は土間で板敷きの寝間がついていた。トイレはなくて、夜は竹筒の中に用をたして、朝どこかへ持って行くようだった。オッカウの家で時々珍しい食べ物をご馳走になった。中でもよく覚えているのは、鶏の頚動脈からとった血をもち米の入った茶碗に入れて、それをかまどの余熱で蒸し焼きにしたもので、これが結構珍味なのである。母は“汚いから食べ物をもらって食べてはいけません。”とよく言っていたが、私にはとても興味ある体験だった。

オッカウの家との境にはブッソウゲが植えてあって、この茎の中にはスポンジの様なものが入っていて、これを突き出すのが面白かった。ブッソウゲの手前にマンゴーの木があって、父がブランコをぶらさげてくれたのでよく遊んだ。裏庭の縁側の前には竜眼の木が2本あり、竿の先を半分に割って棒を差し込み、竜眼の房を捻りとったものである。パーラーと言う木もあった。これは後にグアバジュースを飲んだ時、昔懐かしい味がして、ふっと鳥松の庭の木の実を思い出したものだった。門の横には薄紫色の小花を房状につけるせん檀の木があって、いい香りがするので蝶々がよく舞っていた。裏庭の奥の田んぼとの間に自然の池があった。池の回りにはエン菜と称する蔓状の野菜が生えていて、これはおひたしや油いためにしてよく食べさせられた。近年、横浜の知人が種を台湾から取り寄せて蒔いたらとても成長が速くて沢山とれたと言って送ってくれたが、とても懐かしかった。池の前にはホンケイタウと言う平たい豆を栽培する棚があった。これもよくなって、とるのが楽しかった。

昭和15年4月、私は鳳山小学校へ入学した。集団生活も学習もすべて始めての経験でどう対処するべきか分からなかったので失敗ばかりしていた。鳥松から鳳山へ出るのにはバスしかなかったが、朝のバスをのがすと昼近くまで来ない。バスに乗り遅れて弁当だけ食べて帰ったことがあった。バス停の側に、屠殺場が有って、豚の腸を洗っている作業に見とれていたりするのでバスが来ても気がつかないのである。母が心配して自転車で私を小学校まで送るようになった。自転車は28インチの男子用しかなかったので母はペダルを一番高いところに持ってきてひょいと飛び乗るのが常だった。私は後ろ座席に乗っていてその都度ぐらぐらっとするのが怖かった。バス道路に出るまでの道は細く、牛車のわだちが食い込んだ悪路だ。或とき遂に車輪がわだちにはまって安定を失い、自転車もろとも下の畑に転落した。今思うと不思議なのだが私は自転車にしがみついたまま無傷だった。多分母が自転車をたてたまま転んでくれたのだと思う。学校の帰り道はバスに乗ったり歩いたりいろいろで、道草しながら帰るのは楽しかった。パイナップル缶詰工場の前を通る時はいつも甘酸っぱい匂いがしていた。牛車にぶらさがって帰った時もあった。

学校では授業中も遊び気分でいたずらばかりしていたので、遂に業をにやした先生は私を校長室に連れて行って奉安殿の前に立たせた。しかし私は何でこんな所にいるのかよく分からなかった。或とき作文を書くことになった。私は先生の説明を聞いていなかったので、紙をもらっても何を書いたらよいのか分からなくて困った。仕方なく隣の子の作文をそっくりコピーした。後でこれが親の知るところとなり、母が毎日作文を便所に貼るようになった。

秋の運動会はたのしかった。両親は重箱に弁当を積めて見に来ていた。遊戯は“仲良し小道はどこのみち いつも学校へみよちゃんと ランドセルしょってげんきよく お歌を歌ってかよう道” というので今でも前奏から踊れるのはおかしい。これはよかったのだが、借り物競争のとき私が拾った紙には“がい長さん”と書いてあって、私は“がいながさーん、がいながさーん”と叫びながら客席の回りを廻ったがだれも出てきてくれず、一周して紙を見せると“街長さんはあそこよ。”と教えてくれてもう一回り街長さんに引っぱられて走った。とても恥ずかしかった(写真下:塀東へ遠足に行ったとき。前列女子の一番左)。

昭和16年12月、鳳山小学校の上を沢山の戦闘機が編隊を組んで南の方に飛んで行った。それは今まで見たこともない異様なものだった。今ではだれでも知っている太平洋戦争の始まりだった。それでも学校の行事はさほどの変化も無く、遠足や学芸会なども行われていた。変わったのは名称が小学校から国民学校に変更されたことだった。

3年生になった頃、私の一家は鳥松から九曲堂へ引っ越すことになった。九曲堂は鳳山から塀東にいく途中にあり、大きな川の近くに家があった。当時はその川を下淡水渓と言っていた。地図では玉山、昔の新高山に端を発している大河だが、ここに発電所があって水は大きなタンクに集められて、その一部がいつも勢いよく傍らの運河に流されていた。私の家はこの急流の運河の際にあった。運河といっても厳重な囲いがあるわけでもなく、川に降りていく階段もあったが、危険なので降りたことはなかった。この急流に或とき台湾人が落ちて、“アイヨー、アイヨー”と言いながら流されて行った。見ていた人は棒を差し出したりしていたが、何の役にも立たなかった。数時間後、下流の橋げたに引っかかっていたのが見つかったが、すでに息絶えていたそうだ。急流の水門の横に板を渡した橋があり、其処を渡ると広い河原に出ることができた。下淡水渓は対岸が遥かかなただがほとんどが洲で、人々はそこに西瓜や野菜を植えていた。私はその中州で千なりホオズキの実を集めるのが好きだった。洲の中をチョロチョロと水が流れていて、一見何の危険もないようだったが、所々に水の深みがあって、そこでは水が渦を巻いているとか、何人もの子供が命を奪われていた。普段でもこんな危険をはらんだ河が一度台風に見舞われると一気に水かさが増して、土砂を巻き込んでとうとうと流れる。恐ろしい眺めだった。先日高雄から花蓮へ飛ぶ機上からほとんど水の無い大河を目にした時、其処に架かった橋と鉄橋を見つけて、あれはまさしく私の遊び場だった下淡水渓に違いないと確信した。

九曲堂での生活は思えば一夏の経験で終り、私たちは翌年高雄市に引っ越したのだった。九曲堂でのお月見は父と過ごした最後の楽しい一時となった。 高雄に移って間もなく父は病気がちとなり、中耳炎から肺炎をおこして、入院して三日目にあっという間に死んでしまった。息が苦しくて酸素吸入をしていたが、それでも苦しくて、医師の忠告にもかかわらず、モルヒネを注射してもらい一瞬楽になっただけで、“水をくれ”といい一口飲んだのが最後だった。

遺骨を抱えて家に戻ったとき父が戦局をうれいて柱に残した新聞の切り抜きが風に揺れて妙に悲しかった。太平洋戦争真っただ中の昭和18年3月28日のことだった。今思うと母は一人で大変だったろうと思うのだが、すぐに日本への帰国手続きをして荷物の整理を始めた。父の自転車は近所の人の手に渡った。本も古本屋に引き取られていった。箪笥や蓄音機も消えた。ただ愛用のシンガー ミシンは手放さなかった。戦争の最中にかなり沢山の荷物を持ち帰れたのは奇跡に近い。

私は鳳山国民学校から高雄の大和国民学校に転校して一学期だけ通い、台湾を後にした。高雄から台北まで夜行列車で行き、台北の知人宅に一泊、円山動物園を見せてもらい、翌日基隆の港から日本に向かった。私達が乗った船は鴨緑丸、同時に富士丸が出航した。途中の海には敵の仕掛けた機雷が沢山あって、これを避けて航海するのはまさに天命にかかっていた。航海途中に幾度か警報が出て、その都度甲板に集合して救命具をつけさせられた。富士丸は日本を前にして沈没、鴨緑丸も次の航海で沈没したと聞いている。船が関門海峡にさしかかったのは夜だったが、皆歓声をあげて喜んだ。門司と下関のあかりが美しかった。そして私達は翌日無事神戸港に入港した。三泊四日の航海だった。

(この続きは私の戦争体験を見て下さい)

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